「物づくりで社会貢献」を掲げ、交通安全製品や防犯関連製品、環境関連製品などの開発・製造販売を行う(株)ヨシオ。会長は、ケトバシプレスから出発した「叩き上げ」ながら、アイデアと開発力で同社を社会に貢献し、利益確保できる会社へと成長させてきました。小泉会長にお話を伺いました。

 ー  ホームページで御社の製品を見させていただきました。いろいろな分野の製品があり、「何を作っている会社」とひとことでは言えないという印象です

ニーズに応えるため、いろいろ考えて開発してきた結果なんです。今弊社は、「安全」「安心」「環境」「OEM」の4つの柱で「4輪駆動経営」を実施しています。もともと、1948年に父が創業した会社で、当時は育児用三輪車の車輪をケトバシで作るプレス屋でした。東京オリンピック終了後の不況で、1967年から翌年にかけて多くの会社がつぶれた。父は保証人になっていたんで、そのあおりで600万円もの借金を抱えてしまった。今の価値だと1億円くらいでしょうか。

 ー 1億円の借金とは、小規模企業にとっては返済が絶望的なレベルですね

でもそこで逃げたら仕入先などに大変な迷惑がかかるのでなんとかしなきゃいけない。いろいろ考えて、三輪車のサドルにマンガをプリントしたら、それが大売れに売れて、1971年にはもう借金を全部返してしまった。1977年には、三輪車ではいよいよ食えなくなったので、ベビーカーの手すりに発泡スチロールを巻いたものを開発したところ、これも成功しました。

 ー 新製品開発のアイデアはどのような形で生まれるんですか?

食えないから必死になって考えるんです。そして、大変な時も人のせいにせず、逃げないこと。諦めず考え続け、「もうだめだな。無理だな」という状況になっても別の仕事をしながら考える。食いながら走るようなものです。そうやっていれば「これだ」というものが必ず出てくるんです。
苦しい時代には親父とはよくけんかしたものです。憎くてしょうがなかった時もありました。後に経営者になって振り返ると、親父の大変さもわかるようになってきた。厳しい局面でも諦めず何かを生み出そうとする力は、親父の背中を見てきたために備わったものだと考えています。社名を親父の名前、「ヨシオ」にしたのはそうした想いからです。

 ー「4輪駆動経営」のうち、時期的に一番早かったものはなんですか

「OEM」です。ウェルダー加工というのは、塩化ビニールなどの材料を溶着する技術です。弊社は以前よりウェルダー加工を行っていましたが、シート材など平面的な加工ばかりで、3次元のウェルダー加工は世の中に存在していませんでした。1977年に大手自動車・バイクメーカーの依頼で3次元ウエルダー加工技術を開発することになりました。自動車のシートはレザー(人工皮革)製なんですが、レザーをウェルダー加工する方法で彼らは悩んでいました。私はレザーが発泡体であることを知っていたので、発泡倍率の異なるレザーを3種類用意し、きちんと溶着できる種類のレザーを突き止めました。3次元加工については型の設計から行い、開発に成功しました。
時を経て、ランドセルが高価格化・高機能化する中で、背当てに通気性をもたせる必要性が出てきた。通常、レザーとベルポーレンという樹脂素材は接着できないので縫製するんですが、私がウェルダー加工機で溶着する方法を開発したのです。縫製部分を自動化でき、生産性は大幅に向上しました。こうした経緯で、ランドセルメーカーのOEM事業は現在まで継続しており、うちで最も稼げる事業となっています。

高周波ウェルダー

 ー 御社の主力製品となっている、反射材を使用した交通安全製品の開発・製造を開始した経緯は?

夜間走行中の車が自転車を認識しやすくなるよう、自転車のハンドルグリップに吊り下げる反射材「ほたるくん」シリーズ。

ある時、取引相手の失敗で材料の反射材がうちに大量に余ってしまった。捨てるのはもったいないので、何かに活用できないかと考えていました。そんな中、夜間に自転車が信号で停まった際に後ろから来た自動車に当てられたという話を聞きました。「見えなかった」「反射材が付いているのに見えないわけがない」とトラブルになったという。その話を聞き、どうして見えなかったのかを観察するため、私も夜間に車で自転車の後を追いかけてみた。すると、自転車の反射材は光が真っ直ぐに当たっている場合には反射するが、曲がる時には見えないことがわかった。これを解決するためには自転車のグリップに反射材を付ければいいということで、1991年に「サイクルピアスほたるくん」を開発したのです。
1990年に足立区が区内事業者に呼びかけて異業種交流会が発足し、弊社も参加し、新製品開発などの活動を行いました。「ほたるくん」を異業種交流会メンバーに見せると、「引っかかってケガをしたらどうする」とかネガティブな反応しか返ってこなかった。でもあるメンバーが「軽井沢に行くと自転車がたくさんある。これを付けてもらえばマスコミで話題になるよ」と教えてくれた。実際にやってみると、テレビ番組で取り上げてくれ、それをきっかけに売れるようになった。これが以後も交通安全製品を手がけるきっかけになりました。

 ー 環境関連製品を手がけるようになったきっかけは?

「ぬくぬくブランケットEX」

交通安全製品を手がけたことにより、警察庁のある人物が全日本トラック協会を紹介してくれた。協会から「アイドリングストップを促進する製品を作ってくれないか」と頼まれて1996年に開発したのが「アイドリングストップ・キー抜きホルダー たの身のつな」です。車のキーと身体をこのホルダーでつなぐことにより、降車時にエンジンを止めることを促すもので、特殊形状記憶素材を使用しているため伸びたるみがないという製品です。トラック協会がいろいろなところに配ってくれたので大当たりになりました。
次に、「エンジンを止めて車内で寝られるものを作ってくれないか」と依頼されて2005年に作ったのが「ぬくぬくブランケット」。車内で電気毛布を使う場合、車載バッテリー上がりになるおそれがある。そこで車載バッテリー切れになる前に、電力供給を車内のバッテリーに切り替えるコントローラーを開発し、特許を取得したんです。北海道の帯広で1月末に気温が-20℃になると聞き、現在の社長とふたりで訪れ、実際に使えるかどうかを検証しました。使えなかったら死んでしまう環境で、使えるということを身を持って実証したのです。

 ー 防犯関連製品の開発の経緯もお聞かせください

西新井大師前の通りにはパチンコ屋がたくさんある。そこで1500万円のプリペイドカードのひったくり事件が発生した。パチンコ店の事務をやっていた人から「どうにかならないか」と相談されて開発したのが、防犯ブザーをロープでかばんに付けた「SOS防犯ブザー」という製品。ひったくった犯人は大きな音を出しながら逃げちゃうんだから効果は抜群で、実際にバイクの二人乗りで犯行に及んだ犯人が捕まった。その事件から一気に評判になり、ヒット商品になりました。
また、1997年に神戸連続児童殺傷事件が発生し、「子どもに持たせられるようなものはないか」ということで小さな防犯ブザー「プチアラーム」を開発したところ、NHKで2回も放映してくれ、評判になった。そうなると生産が追いつかない。この製品も大受けでしたね。

防犯用品「防滴プチアラーム2」。小型で雨に強く、大音量かつ超高音を実現した防犯ブザー

 ー 現在、事業は順調に伸びているようですね。会長として御社の将来についてどうなって欲しいとお考えですか

 社長は、米国車のコンチネンタルを買ってきて板金から何から自分でやってしまう。また、梅田工場は、3年前に中古物件を購入し改装計画を自分で作り、鉄骨だけは知り合いにお願いして、暇な時を見つけて社員やパートさんと一緒になって作り上げた。ものづくりが好きなんですね。だからものづくりの魂は、私がいなくてもうまく引き継がれるだろうと思っています。
「夢なきところ民滅ぶ」という言葉を教えてくれた人がいました。私は、「この会社はこうなるんだ」といつも言い続けてきました。厳しい時代を乗り越え、借金を無くし、利益を上げられるようになり、銀行の信頼も獲得しました。令和2年度の決算はおそらく4億を超えます。今後は、10億を超えることを目標にして進んでもらいたい。まだ成長の余地はありますが、社員も順調に育っているので、きっと実現してくれるものと期待しています。
Photo

(株)ヨシオ 取締役会長 小泉俊夫 氏

1945年生まれ。中学校卒業後同社に入社。入社当時はケトバシで三輪車の車輪を作ったりしていた。1995年に同社の社長に、2015年には会長に就任。若いころは最終学歴を聞かれるのがいやだったという。ある時友人に『おまえは経営者になりたいのか、それとも職人になりたいのか』と聞かれ、『経営者になりたい』と答えると、『それなら最低でも簿記を勉強しろ』と言われた。そこで、働きながら村田簿記学校で通信教育を受けた。今となってはそれがよかった」。勤労青年の学習会での勉強や人的交流も後の人生に大きな糧となった。とくに、サークル活動で始めた詩吟は、一生の趣味となった。長い経歴の中で、「会社がつぶれそうな局面は何度もあった。本当に悔しく、人に話したくない思いもたくさんしてきた。山あり谷あり地獄ありですよ」と述懐する。苦しい局面も努力と才覚で乗り切ってきた。冬はスキー、夏はマリンジェットを楽しむアクティブな趣味人でもある。

ADACHI BRAND FROM TOKYO
Copyright © Adachi-city
All rights reserved.