金属製医療器具を製造する三祐医科工業(株)。展示会出展の折、来場者から指摘された言葉からインスピレーションを得て開発された、「医療器具屋さんが作った耳かき」が大ヒット。長年培った熟練技術で作られる耳かきは、開発から10年以上経った今でも人気は衰えず、ロングセラー商品となっています。小林社長にお話を伺いました。

まず御社の沿革について教えてください

三祐医科工業(株) 小林 保彦 社長

1972年に父が創業しました。創業以来、お医者さんが使う医療器具を、医療器具問屋や商社のOEMとして作り続けています。私は、1990年に入社し、1996年に社長に就任しました。弊社で製造する医療器具は、患者さんの体内に入れるものが多いので、一本一本を職人の技でていねいに加工し仕上げています。

熟練技能が必要な仕事なんですね。近年の業界動向はどんな感じですか?

医療の現場でも近年新しい技術の台頭が著しく、既存の技術が機械などで代替されることが多くなっています。そんなこともあり、業界のパイは小さくなっています。また2005年に薬事法が改正され、海外の医療器具が国内に入ってきやすくなったことも厳しくなってきた要因のひとつです。こうした状況を背景に、後継者難等で廃業する同業者も多いですね。うちは苦しいながらもなんとか生き残ってきました。

ロングランヒットとなった「医療器具屋さんが作った耳かき」。先端径が2mm・3mm・4mmのものや1本で2mmと3mmのふたつの先端径が利用可能な2wayタイプの製品などがある。先端部は医療器具にも使用されるポリアセタールという樹脂、柄は真鍮で、ねじを切ってボンドで接合している。2mmという細い樹脂へのねじ切りは難易度の高い技術であり、わかる人には驚嘆されることもあるという

いいものを作っていれば事業を存続させることができた時代とは変わってきたということですか

父の時代は、顧客から言われたとおりに作っていればよかった。いわば「待ち」の姿勢でも十分やっていけていたんです。しかし自分の代になると、積極的に営業をしていかないと仕事が取れない。そこで1998年くらいに「あだち異業種交流会 未来クラブ」に入会し、展示会などへの出展の機会を得、営業の幅を広げていこうとしたんです。

いいものを作っていれば事業を存続させることができた時代とは変わってきたということですか

父の時代は、顧客から言われたとおりに作っていればよかった。いわば「待ち」の姿勢でも十分やっていけていたんです。しかし自分の代になると、積極的に営業をしていかないと仕事が取れない。そこで1998年くらいに「あだち異業種交流会 未来クラブ」に入会し、展示会などへの出展の機会を得、営業の幅を広げていこうとしたんです。

加工機械は小さく稼働音も小さい。経験40年以上の熟練職人と女性職人のそれぞれが黙々と加工に従事する。すべて手作業であり、高い集中力を要する細かな作業を続ける

ただ、展示会などで他のブースが一般の方を対象にした商材を販売しているのを見て、うらやましいなと感じていました。「あそこには女の子がたくさん集まるのに、こっちにはなんでたまにおっさんしか来ないのか」なんて。そんな中1999年の産業交流展で、ある来場者が参考展示していた血管拡張器を指し、「これ、耳かきですか?」と聞いてきたんです。こちらは、「そんな雑貨みたいなものを作るか。馬鹿にするんじゃない」と思いましたが、以後も同じような質問をする来場者が何人もいたんです。そこで、遊び感覚で耳かきを作ってみようということになった。2008年に舎人公園で開催された日暮里舎人ライナーの開業イベントでおそるおそる販売したところ、用意した40本が完売したんです。その後、いろんな展示会などでも販売しましたがすべて完売し、欲を出して販売本数を増やし、100本が完売するようになった時に、「これは遊びではなく、会社の仕事としてきちんとした形にしなきゃ」ということになった。商品として耳かきを本格的に開発・製造し始めたのはこれからです。

まだ若い女性職人だが、社長はその実力に絶大な信頼を寄せる。「高専卒業後、自ら入社を志望してきた。機械センスがあり覚えも早く、何よりも集中力がすごい」と舌を巻く

以後、改良を続け現在まで続くロングランヒット商品になったわけですね。

当初、うちの社員は「1本千円では高すぎる。誰も買わないだろう」と言っており、私も「そうだろうな」と思っていたんです。だから、最初のお客さんが買いたいと言ってきた時、「本当に買っていただけるんですか」という感じでした。それがまさか数年後にうちの経営を支えるヒット商品になるとは。産業交流展での「これ、耳かきですか」という質問は、今となっては神のお告げだったんじゃないかと大変感謝しています。でも、開発に伴う苦労など何もないので、「こんなのでいいのかな」とも思います。

耳かきの販売形態はその後変わってきたんでしょうか?

最初は展示会などでの実演販売だったんですが、その後弊社内に店舗を設けたり、東急ハンズさんなどの店舗でも販売するようになりました。さらに生協さんなどでの通信販売を経て、今はネット販売が主流です。最近ではショップチャンネルに出演しました。こうした経験を通し、やはり認知されないと物は売れないということを学びました。
医療器具製造を長年続けてきましたが、問屋さんや商社が直接のお客さんなので、エンドユーザーのお医者さんのご意見を聞いたりする機会はなかったんです。でも、耳かきを始めるようになり、展示会で試しに使ってもらうと「あれっ、これ他の耳かきとちょっと違うよ」とダイレクトに喜んでくれる。お客さんの目の色が変わる瞬間を見るのがすごくうれしい。ものづくりをやっててこんなにうれしいことはない、こういう経験ってそうできないなと本当に思います。

耳かきの成功が社長や社員の方のモチベーションを向上させることにもつながっているようですね。今後御社としてどのような展開をお考えですか?

耳かきの比重が大きくなってきたので、時々「おれ医療機器屋だよな。耳かき屋になってないだろうな」と足元を確認しながらやっています。今後も耳かきの知名度をさらに上げ、売上の向上につなげたいと考えていますが、本業である医療器製造はもちろん続けていきます。
また、一般の方が使う身体に関する道具、具体的には爪切りや毛抜の開発もやっていきます。この分野はうちのこれまでのノウハウが活かせる分野ですから。一般のお客さんが喜ぶ道具を作り、またたくさんの笑顔を見たいですね。

同社の手がけた医療器具の数々。多種多様だがいずれも職人の手わざで作られたものであることに畏敬の念を感じざるを得ない
三祐医科工業(株)代表取締役 小林保彦 氏
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三祐医科工業(株) 代表取締役 小林保彦

1967年生まれ。工業高校では機械科、大学では機械工学を専攻。大学卒業後1990年に同社に入社し、1996年に社長就任。食卓の隣が工場という環境で育ち、「幼いころから働くことイコールものづくり、ほかの仕事は考えられなかった」という。高校のクラブ活動では部員3人の「溶接部」に所属という、根っからのものづくりマニアである。 *同社工場に隣接する店舗「耳かき屋さんゆう亭」(足立区六木1-12-9)は、土日祝日を除き、午前9時から午後6時まで営業しています。同社製耳かきを店内特別価格で販売していますので、お気軽にお立ち寄りください。

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