創業90周年を迎えた千住の鞄工房、渡邊鞄。バブル崩壊後、下請けからの脱却を期して開発したオリジナル製品が好評を博し、以後和のデザインと機能性を重視した製品を次々に発表。また、工房への店舗併設やECサイトの開設、クラウドファンディングへの挑戦など、販売面での積極的な展開も図っています。渡辺代表にお話を伺いました。

 ー 創業が1929年ということで、今年(※)で90周年ということになりますね

渡邊鞄 渡辺 憲一氏

そうなんです。父は、大分県宇佐市の出身で、家業は宇佐飴の製造だったんですが、次男坊だったので、14歳の年にいとこのお兄さんを頼って上京し、神田の鞄屋で修行したんです。ところがそのお兄さんが労咳(ろうがい)で早逝してしまった。それが1929年です。父はまだ修行中の身だったんですが、身寄りがなくなり以後独力でやるほかなくなった。親父の元年みたいな意味であえて「創業」としています。※:本インタビューは、2019年9月に行いました。

 ー 時代背景を考えると、今では考えられないほどのご苦労があったことでしょうね

まだ幼かったためか、修行先で意地悪されるなどいろいろ苦労したこともあったようです。修行先から夜間学校に通い、その後戦争にも行きました。最初に持った自分の工場は西新井の本木(もとき)で、以後区内で何回か移転しました。戦後の好景気に支えられ、10人ほどの住み込みを抱えるメーカーとして順調に発展していたんですが、親父が保証人になっていた人が逃げちゃって、そのせいで倒産の憂き目に会いました。僕が小学校のころです。以来ずっと下請けをやっていました。

 ー 下請けから脱却し、自社製品を販売する現在の営業形態になるまでの経緯について教えてください

僕は高校卒業後、すぐに入社しました。技術は親父に少しは教わりましたが、ほとんど全部独学です。親父は放蕩(ほうとう)な性格でした。戦後の好景気の時期に、ご多分に漏れず袋物も景気が良かった。後に不景気な時代になっても、いい時代のころが忘れられず着物を着て小唄長唄、向島なんかにも行っていたらしい。うちに小唄のお師匠さんが通いで来ていたほどでした。もっと真面目にやっていれば、今でもお金が少しは残っていたんでしょうが。
親父は60歳でミシンを降り、以後僕が切り盛りすることになりました。バブルの時期に、ブランドライセンスもののブームが来て、OEMの仕事が安定的にあり、忙しかったんです。しかし、バブルが終わりブームが去った時、わが身を振り返り、「職人なのにものをつくる創造力がない。なんで俺はものを作れないのか」とすごくジレンマを感じました。もう他の仕事にはつけないし、ものづくりが好きだった。何か作らねばという思いはあり、2年間試行錯誤して作り上げたのが、「縦長トート大  纏(まとい)柄」です。銀座の高級呉服店で販売したんですが、芝に住む江戸弁の達者な年配の女性が「知人の鳶(とび)の親方にプレゼントしたい」と2個購入してくれた時には、本当にうれしかったなあ。

下請けからの脱却を図り、2年間の試行錯誤の末作り上げた最初の製品「縦長トート大 纏(まとい)柄」。本体の生地に、シワ感がしなやかな「鬼ツイル」を採用。中央に纏のタペストリーを大胆に配し、十徳ナイフの多機能性をイメージして、携帯入れ、名刺入れ、suica入れのポケットなど7つの機能を装備。和のデザイン要素を押し出しつつ、機能性を重視し、和装洋装問わず使えるというオリジナリティの高い製品となっている

 ー 以後徐々に自社製品を増やし、今に至るというわけですね。ところで御社の製品には一貫して「和」のデザイン要素が含まれる一方、現代的なセンスも感じられます。デザインの源泉はどこにあるのでしょうか?

若い時からファッションやものを見て歩くのが好きでした。とくに、一流といわれるものを「なぜ一流なのか」ということを考えながら見ることが自分なりの感性を育成するうえで、すごく大事だと考えています。
あと、親父は道楽者で、着物のおしゃれや小唄が趣味、母は古典の俳句や和歌をよく教えてくれました。そのせいか江戸の文化に憧れと親しみを持つようになりました。製品のデザインに「和」の要素を入れたいと考えるようになったのはそのあたりからなんでしょうね。
ものづくりに必要なものはアイデアだと考えています。アイデアなくして人の心を打つものはできない。僕の場合、アイデアは突然上から降りてくるという感じですね。

「のれんバッグ」。木綿地と竹で構成されたシンプルな構造。ファスナーなど閉めるための部品はなく、竹に吊るされた両端の輪を寄せれば開き離せば閉まるという単純な作りだが、和柄を全面に出し、余計なものを廃した点がいかにも粋でかっこいい
「2way合切袋」。本体に国産鹿革を使用し、サイドに手捺染の市松柄を配した。本来和装時に使用される合切袋に着脱可能なショルダーを付けることにより、洋装時でも合わせやすくした。クラウドファンディングで資金調達を図ったところ、目標金額の656%を達成

 ー ところで工房は、千住駅から若干歩きますが、住宅が密集し下町らしい路地を抜けてたどりつく、いかにも千住のイメージにふさわしい場所にありますね

ある時、終(つい)の棲家(すみか)を探すつもりで、3か月間仕事を休んでいろんな場所を訪れ、一日中歩き回ったりしていました。福生や石神井公園、埼玉や大田区などを回ってもなかなかいい空き家は見つからない。千住も何軒も見て一度はあきらめたんです。ダメ元でまた聞いたら、「一軒ある」と。それで見つけたのが現在の場所です。もとは老婦人が住んでいたという普通の民家でした。「『千住で二代目』と謳っている以上、千住じゃなきゃだめだろ」と人から言われて、「そりゃそうか」と。それでここを借り、工房にしたんです。

 ー 工房の隣に後で店舗を設けた経緯は?

2013年の秋に、長年の念願だったイタリアを娘と訪問し、北から南へと工房めぐりをしてきました。とても楽しく、勉強になる2週間でした。われわれの業界では「デパート−問屋さん−メーカー−職人」というのが物流の一般的な流れになっていますが、長年それに疑問を感じていました。ところがイタリアでは、作っているその場所で売っているため、利益は全部職人のものになるんです。「あっ、これだよ、これだよ」と思い、2014年に工房を改装して店舗を設けることにしました。
娘は小学校の時から図工が得意で、東京芸大のデザイン科を出て建築事務所で働いたこともあるので、建築の心得もある。窓枠を作ってふたりではめ、床も自分たちで張り、照明もドアも買ってきて付け、のれんも自分たちで作ったんです。あの子全部ひとりで作っちゃった。あの時は、渡邊鞄じゃなく渡邊「工務店」でしたね。

最近開発した「外出用ウロバッグカバー」。ウロバッグとは、排尿障害の人が使う尿バッグのこと。「排尿障害の方でも外出時にはおしゃれをしたい。少しでも困っている方のお役にたてればという想いで開発した」(渡辺代表)。本体に鬼ツイル、裏地には無臭布を使用し、導尿チューブが見えないよう内蓋を付けるなど、素材や細部の作りにこだわった

▶渡邊鞄の将来についてどうお考えでしょうか?

日本の伝統柄の良さを多くの方に知ってもらいたい。とくに若い方に日本の伝統柄を普段遣いのものに取り入れ、おしゃれを楽しんで欲しいという想いで続けています。

今の段階で後継者のあてがあるわけではないので、当面は娘とこれまでどおりやっていく他はありません。いろいろな形でうちの存在をもっと多くの方に知っていただくよう努めていきたいと考えています。あとは、最近クラウドファンディングにチャレンジし、まずまずの成功を収めました。第二弾、第三弾とやっていければいいなと考えています。

生まれも育ちも千住なので、千住のまちの良さを広く知ってもらいたいし、もっといいまちにしていきたい。宿場町として有名だし、他のまちにはない有利な条件だとは思いますが、千住の名物となると「槍かけ団子」以外にこれというものがない。たとえば、京都には一澤帆布さんがあり、鎌倉には鎌倉帆布さん、浅草には犬印鞄製作所さんがある。僕はよそと同じものにしたくなかったんで帆布は使わないけど、「千住には渡邊鞄があるじゃないか」と後々言われるような形にしていきたいですね。

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渡邊鞄代表 渡辺憲一

1955年、千住生まれ。高校卒業後、すぐに同社に入社。「少しは遠回りしたかったんだけど、親父はそれを許してくれなかった」。1975年、先代の引退に伴い代表に就任。職人の息子として生まれ育ってきたため、「ずっと縛られるような人生だった」と感じており、それに反発するかのように若い時分はサーフィンやディスコ、バイクに興じたこともあった。「自転車ですぐの高校も、わざわざ電車を使って通学したこともありました。ホワイトカラーにも憧れましたよ」。職人一筋ながら、若い頃はヘアカットモデルをやったり、近年は杉野服飾大学で学生にバッグ製作指導を行った経歴も持つ。 *工房に併設する店舗(足立区千住4丁目12−3)の営業時間は、月曜日〜土曜日が9:00〜18:00、日曜日・祝日は要予約となっています。「平日でも居ない場合がありますので、ご訪問の際は事前にお電話いただいた方が安心です」。

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