プレタポルテなど婦人服の製造を手掛ける(株)マーヤ。顧客は国内トップクラスのアパレルブランドなどで、同社の縫製技術、とりわけ「細ロック・細メロウ」は、プレタポルテなどの高級ブランドやメーカーから高く評価されています。菅谷智社長とご子息の菅谷正工場長にお話を伺いました。
ー まず御社業務について教えてください
社長:直接のお客様は婦人服のアパレルやメーカーです。お客様から材料をお預かりし、裁断し、縫製して納品するという仕事です。また、現在は自社ブランド「マーヤ」の製造も行っており、工場直結ファッションブランド「ファクトリエ」さんのECサイトで販売しています。
ー 顧客には有名なブランドが多く含まれているようですね。でもここに至るまでにはいろいろと大変なこともあったのではないでしょうか
社長:弊社は、1959年に父が設立しました。当時は「スガヤ洋裁所」という社名で、以後アパレル1社の仕事だけを何十年もずっと受けていました。それが変わったのは、その会社が倒産してからです。昭和60年(1985年)ごろのことです。
ー いきなり仕事がなくなったわけですね。当時社長はどんな立場だったんですか?
社長:当時はまだ大学生でした。夜学で、日中は午後4時までこの会社でアルバイトとして働いていました。この会社を継ぐという気はあまりなかったんですが、周りの社員の人から「継がないの?」なんて聞かれることもあったりしました。また、仕事をやるうち、自分が意外にも器用であることに気づき、細かい仕事が好きだったこともあって、「これはこれでいいかもしれない」と思い始めたころでした。以後は、親会社倒産のショックからどう立て直そうか必死になりましたね。
ー 具体的にどんな形で立て直そうとしたんですか?
社長:できるだけお客さんを増やそうと努力しました。実は、親会社倒産以前から1社がこけてもぐらつかないように、不定期的にちょこちょことよその仕事もやっていたので、0からの出発ではなかったんです。都心に近いので、できるだけお客さんに顔を出し、たとえばサンプルを持っていったり、先方の要望を直に聞いて持ち帰ったりという細かいところを地道にやった。できるだけ信用を取って、一回始まったらスポットで終わらないように長く続けるというスタンスでやっていきました。そのおかげで、3社になり、5社になり、10社になり、今は11社くらいになったんです。苦しかったですね。今工場長がやっている苦労の3倍4倍はあったかな。
ー その後のバブル崩壊の影響も大きかったのではないですか?
社長:大きかったですね。とくにアパレルはどんどん潰れました。そのせいで仕事は半分に減りました。仕事を増やそうとしたけど、工賃が安く、数をやっても売上が落ちるといった具合で悪循環でした。当時、国が中小企業対策の緊急助成金を実施しました。無担保で5千万円まで借りられ、5年で返却するというもので、うちも借りましたが、これを返せなくて廃業した同業者がかなりいました。
そのあと、バブル崩壊の影響から回復しかかっていた時期に来たのが、中国など海外製品やファストファッションなどの台頭です。この影響で国内のアパレルが軒並み安いものを作ろうとし始め、工賃がさらに安くなったんです。「これはもうだめだ。高いものをやるしかない」ということになり、それまでは中級の百貨店ブランドの数が多かったんですが、以後はセレクトショップや自社ショップが銀座にあるような高級ブランドを顧客のターゲットにしたんです。
ー より高級なものとなると、要求される技術もより厳しくなるのでは?
社長:高級品になると、デリケートな生地が使われることが多いんです。これを縫製するためには、ミシンのスピードを落とし、ていねいにやる必要がある。いつものペースでやるとどうしても縫いずれやピリつき(縫い目周辺に出る細い波状のしわ)などが起こりやすい。その感覚、くせをつけるまで、縫ってはほどいてを繰り返すんです。うちの売上げは社内では全部オープンにしているので、「このブランドの仕事がやれればひとりあたりの工賃がこれだけ上がる」ということをみんなに伝え、みんなでがんばりました。このブランドだったらできる。それができるようになったら、ちょっと上のブランドを目指すという形で階段を昇るように少しずつステップアップし、今は目指していたところまで来ました。
ー 経営的な苦境を技術力の向上によって乗り切った、まさにものづくりとしてあるべき姿だといえますね
社長:生き残るために、やむにやまれずやってきた結果です。でも、不良とも言えないような部分を指摘され、収めた製品が全部不良扱いになって、直しとなることもいまだにあります。思うところはありますが、そこはもう勉強だと思うほかはない。こういった経験を積み上げ、みんなで次に向かっていくしかないですね。
ー ところで、工場長はどんな経緯で入社されたんですか?
工場長:もともとファッションなどに興味はなく、親の会社に入ろうなどとは全く考えていなかったんです。大学では生命科学を専攻し、就活でも当初は食品や医療関連企業を狙っていたんですが、ふとしたはずみからファストファッション系のアパレルに入社しました。店舗で販売を経験したのですが、安い服は値段をさらに落として最終的にはワゴンに入れられたり、ダンボールの中で服が雑に扱われたりするのを見て、「一生懸命作られた服がこんなになっちゃうのか」と心が傷みました。店舗から日本製の商品が完全になくなり、中国製やミャンマー製が出てきたりするのを見て、残念に思うようになったんです。
一方、父の仕事を傍目で「大変そうだな」と思っていましたが、でもよく見ると粗雑に扱われない服を父は作っていた。このままでは父の仕事がなくなってしまう、自分にできることはないかと考え、3年で退職しこの会社に入社したんです。
社長:この仕事は、大変なことの多い商売だと思っているので、親としては自分の好きな道に進んでくれればいいと考えていたんですけどね。
ー 入社にはいろんな想いがあったんですね。ところで、自社製品の展開については工場長が主導的に行っているようですね
工場長:うちは、細メロウなど技術力が強みです。でも下請け仕事ばかりではその強みが見えづらい。そこで、自社の強みを生かした自社製品を開発し、昨年の7月からファクトリエを通じて販売を始めました。
ー 立ち上げてからまだ1年ですが、どうですか?
工場長:形をできるだけシンプルにし、細メロウをふんだんに入れ、飽きのこない長く売れるものにしたんですが、売上げとしてはまだまだといったところです。ただ、今回やってみて製品づくりの体制に関わる課題が明らかになったので、次からはその点も踏まえ、より多くの方に着ていただけるものを作りたいと考えています。こうしたことを繰り返しやることによって、着実に売れるような形にしていきたいですね。またいずれは自分たちで販売できるようになれればと思います。
ー 今後会社としてどうしていきたいとお考えですか?
工場長:うちの強みは技術力なんですが、技術についてもっと知ってもらわないと正当に評価してもらえないと思っています。縫製教室でもいいし、これだけ時間をかけて商品が作られているという動画でもいい。技術を可視化し、もっと広げていきたいと考えています。
社 長:縫製工場として技術を磨き、より付加価値の高いものが作れる会社にしていきたい。ゆくゆくはうちで作った商品にプレミアが付くといったところまで目標にしてやっていきたいですね。